政経講義56 国際経済体制をわかりやすく

政経

本単元のポイント
固定相場制と変動相場制の転換点を抑える!

本まとめの用語表記

赤蛍光ペン…入試頻出の最重要事項
黄蛍光ペン…抑えておくべき重要事項

今回は国際経済体制問題について。戦後の国際経済のしくみがどのように変化してきたのかを抑える必要があります。金本位制や金ドル本位制、固定相場制、変動相場制など、難しい内容が続きますが、どのような仕組みなのか、またそのしくみになった背景を併せて理解していきましょう。

▼金本位制から金ドル本位制へ

時代は19世紀、貿易を円滑に行うためにイギリスで金本位制が採用されました。海外との通貨取引の際に、「金」を基準とした紙幣を使用することで、通貨の価値を安定させる狙いがありました。金との交換を保証する紙幣を兌換紙幣といいます。これは金融の部分でもやりましたね。

しかし、金の保有量の範囲内でしか紙幣を発行できないデメリットがあり、1929年の世界恐慌の際に露呈することになります。不況を脱するために通貨量を増やしたくても紙幣の発行が出来ない。そのもどかしさから金本位制を諦める国が増加しました。金との交換を保証しない不換紙幣が主流となり、中央銀行が通貨を管理する「管理通貨制度」が世界のスタンダードとなりました。

そして戦後の経済体制では、経済の中心的存在であったアメリカのドルを基準として、国際経済体制を運営(=金ドル本位制)することを決定していきます。1944年に開催された会議で締結された「ブレトンウッズ協定」によりこの体制が始まったため、このアメリカドルを中心とする制度をブレトンウッズ体制と呼ぶこともあります。

▼固定相場制と変動相場制

ブレトンウッズ協定(1944)

ブレトンウッズ協定では、各国が米ドルを基軸通貨とする固定相場制に合意しました。日本でいえば1ドル=360円という為替レートで固定することにより、いつでも同じ価格で貿易ができる安定性を高めることが狙いでした。さらに、為替相場安定のために外貨不足に陥った国へ短期融資するIMF(国際通貨基金)の設立、戦後復興や開発援助のために長期融資を行うIBRD(国際復興開発銀行)、通称世界銀行の設立を決定しました。

ブレトンウッズ協定とは

ざっくり言えば、アメリカ中心の経済体制にするからみんな付いてこい!というイメージ。それだけ世界経済の中でアメリカの存在感が大きかったことがわかります。

変動相場制への移行

しかし、最強アメリカもひとつの国でしかなく、無限に資金があるわけではありません。世界最大の経済大国にふさわしく多くの援助を行い、活発に貿易を行い、軍事支出にも力を入れていった結果、大量のドルを海外に供給し続けることになりました。出ていく分入ってこれば問題ないわけですが、このバランスが極端に悪かった。国際収支の赤字が続いた結果、アメリカ国内の金が尽きていきます。「このままだといつか金とドルが交換できなくなるのでは…?」とドルへの信用が大きく揺らぐようになってしまい、「ドル危機」と呼ばれる状態となります。

この時の緊急対応策として、IMFが1970年から配分し始めたのがSDR(特別引き出し権)というものです。ドル以外の決済手段として使える特別な通貨で、第三の通貨と呼ばれました。いわば自国通貨以外の特別ボーナスのようなもので、IMFの拠出額に応じて配分されたため、貢献度の高いアメリカが多額のSDRを受けることになりました。アメリカはドルを使わずとも決済ができるようになり、ピンチを一時的に脱する狙いがありました。

しかし、これだけではドル危機は止められませんでした。1971年、当時の大統領だったニクソンが、「各国の金とドルの交換停止」を発表。もう金とドルの交換を辞めます!という宣言は、すなわちアメリカ中心の通貨制度をギブアップするということでした。戦後から続いていたアメリカ中心の固定相場制は崩壊せざるを得ない状況となりました。この混乱をまとめて「ニクソンショック」といいます。

アメリカ中心の固定相場制を諦め、各国の経済状況でレートを変動させる「変動相場制」に移行することになった世界経済は、安定性を失ったことにより貿易の停滞を招いていきます。

スミソニアン協定とキングストン合意

一旦アメリカが白旗を上げたものの、世界の貿易停滞が起こったことで、何とか建て直しを図る動きが起こります。ニクソンショックと同じ年の1971年12月、先進国10カ国が固定相場制の復帰に向けた案をまとめ「スミソニアン協定」を締結しました。金に対するドルの価値を引き下げ(=金とドルの交換をしやすく)、円に対するドルの価値も引き下げます(1ドル308円)。つまり円高ドル安へ誘導し、アメリカの輸出を有利な形を作りました。※円高円安については別の記事へ(→円高円安の基礎)

しかしこれでもアメリカのドル危機は建て直せず、先進国は続々と固定相場制から離脱していきます。最終的に1976年にジャマイカの首都キングストンにて、変動相場制への正式移行が承認されることになりました。これをキングストン合意といいますが、先進国はこの合意の前にほぼ変動相場制へ移行していたことに注意してください。※1972年にイギリス、73年には日本が固定相場制から離脱しています。

▼政府による為替介入

変動相場制では、需要と供給の関係で為替レートが決まっていきます。つまり、世界中から日本円が欲しい!と交換する人が殺到すれば円の価値は上がり円高となります。円高・円安にはいずれにもメリットデメリットがあり、どちらかが正しいというものはありません。しかし、これが急激に変動することは経済の混乱に繋がるため、政府や中央銀行は為替の健全な推移に尽力します。

裏を返せば、中央銀行の積極的な介入により為替レートを誘導することも可能です。これを複数の国で行うことを協調介入といいますが、実際に行われた事例を2点紹介します。

プラザ合意(1985)

当時、アメリカの貿易赤字が深刻化していました。一つの要因がドル高で、ドル製品が高すぎて売れないというもの。これを解決するために、「先進国のみんなでドル安に誘導して~」と要求したのが1985年のプラザ合意。年号もよく出るので覚えておきましょう。ドル安に誘導し、アメリカの輸出を有利な形へ持っていこうと試みました。

ちなみに、この結果逆に日本の輸出は停滞し、円高不況を引き起こします。これからは貿易に頼り切らず、国内の力でお金をどんどん回していこうと方向転換しました。それが過剰に発生してしまい、バブル景気に繋がるというところまで抑えておきましょう。

ルーブル合意(1987)

プラザ合意の時とは逆に、急激な円高・ドル安に歯止めをかけようとしたのがルーブル合意。日米両国が協調介入に合意しました。特にこれ以上の内容は出題されないかと思います。

▼まとめ

以上が国際経済体制についてのポイントになります。冒頭にも書いたように、固定相場制と変動相場制の転換点・背景にあった状況について丁寧に理解していきましょう。

読んでいただきありがとうございました。

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